栗生流 謡いの源流を訪ねて

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参考資料

栗生最後の講 若者講

『栗生の民俗をたずねる会』例会講話要旨

平成十九年四月十九日(木)午後七時 

仙台市落合市民センター

⑴ 栗生流小謡集に関する一考察

一、はじめに

「栗生の民俗をたずねる会」の知己会員三名から栗生地域に伝わる「栗生流」小謡について、地縁と能楽観世流門下の視点からの講話依頼を受けたので、ここに承知している範囲で考察し検討をかえた要旨を記述した。考察と検討の対象はシテ方、五流、ワキ方、囃子方及び狂言方とし、能楽関係者の共通認識を基にして記述する。斯界の関係者に設問を受けた範囲において教示の支援を得ている。

二 能楽の構成と能楽における小謡の位置づけ

1 能楽の流儀 四座五流が成立
  観世流 観阿弥を流祖として宗家の名は左近
              (別紙参照)=結城座
   金春流 五流中最古の流儀[四頁に追補記述あり]
             (別紙参照)=今春座
   宝生流 観阿弥の子連阿弥を流祖として宗家の通り
      名は九郎         =保生座
   金剛流 孫太郎氏勝を流祖とする  =金剛大夫座
   喜多流 元和五年、喜多七太夫長能が創流
     (徳川五代綱吉が一流を取立)

付記

・仙台城能は今春流能楽師大蔵正左衛門(小鼓方家元・別記参照)が演能した事実から「大蔵流」と呼称されているので 旧仙台藩内においてのみ通用し、斯界の公称ではない。
 ・「栗生流小謡集」中の記事「大蔵」は、小鼓方の流儀である「大蔵流」であろう。
2 「栗生流」小謡集に編纂されている曲目の曲柄は、祝言・附祝言及び神祇が主体である。
 ア 能楽における祝言の曲柄の分類は「初能」に属し(一番目もしくは神祇物と称し、高砂・弓八幡等は特に真初能と称す)=五流に共通
 イ 小謡は一番の中における一節であり、詞章性は簡潔であるが曲柄を叙述し、旋律に強意性がある。 なお、部類分すると「祝言・附祝言」、「神祇」、「法事・追加」、「宴・懐友」、「名所・景色」、「月・花」、 「和歌」、「春・夏・秋・冬」になる。
 ウ 小謡の実用性の大宗は、「祝言・附祝言」、は婚儀の場、「神祇」は神事奉納を執り行なう場及び「法事・追加」は仏事の法要と追善の場である。
3 小謡の民俗性
 ア 小謡の民俗的位置づけとしては、神前結婚式における「祝言・附祝言」、神事奉納における「神祇(じんぎ)」及び 仏事のおける「法事・追加」が挙げられるが、いずれも挙式次第の場における進行展開の役目を担うとする位置づけが多分 にあり、併せて、小謡がこれらの献酒行事の格式を高める催事として並びに祝事として民間伝承されてきた経緯が認められている。
 イ 一方、小謡の民俗性は、小謡の習得が曾て、農工商業の嫡男の伝習的教養(嫡男の嗜み)として位置づけられてきた経緯 があり、これが前述3─アの施主の地位を確立してきた(賛同や表敬の意味をも含む)歴史に連結する。
 ウ 農工商の生業別の嫡男の伝習小謡の部類分を大別すると概ね次のとおりになる。(観世流能楽師の口述による。)
  ・農業の嫡男の伝習小謡の部類分=「祝言・附祝言」、「神祇」、「法事」
  ・工業の嫡男の伝習小謡の部類分=「祝言・附祝言」、「神祇」、「法事・追加」、「宴・懐友」、「名所・景色」、 「月・花」、「和歌」、「春・夏・秋・冬」
  ・商業の嫡男の伝習小謡の部類分= 「祝言・附祝言」、「神祇」、「法事・追加」、「宴・懐友」、「名所・景色」、 「月・花」、「和歌」、「春・夏・秋・冬」
 エ 大蔵流謡曲の存在について
   大蔵流を公称し大蔵流謡曲師範を名告る現存者(栗原市・旧花山村在住・兵藤智様)によると、専ら「小謡集」に ある小謡を伝授している由。従って番謡稽古はしていない。因に、大蔵流謡曲宗家は存在しない。しかし花山村本沢地域 では現在も年間一回程度の稽古を継続し伝承している事が判明した。
  ※この件は、宮城県図書館生涯学習データを引用し、右の兵藤智様に電話照会のうえ筆者が記述した。

三『栗生の民俗をたずねる会』の活動と展望

 「栗生流小謡集」の存在を通じて、栗生の地域性の一端を知る事となったが、昨今の栗生地域社会の激変、就中急速な新興住宅地化は新たな文化価値観を比較的醸成し易い土地柄に変化(風土の変化)していると認識している。
  この社会変化を現実視した有志による『栗生の民俗をたずねる会』の結社と活動は、栗生地域在来住民の意識変化の端緒である筈である。なれば、「栗生流」小謡集の存在が栗生の民俗をたずねる活動に止まらず、「栗生流」小謡の復興を 切望して止まない、のである。

◎「栗生流」小謡集に関する意見

ア 小謡の詞章が簡潔なるが故に旋律に強意性があるとは言え、例えば「祝言」の一箇所部分を謡うこと を以て曲趣の天地地祇の深淵に臨むような心持ちにはなれない。「栗生流小謡集」の編纂様式を見ると、 やはりその感が否めないと推量した次第である。
 イ 謡曲は暗誦で謡う形式を常態としている。謡本= 「栗生流小謡集」が「栗生流」小謡の備忘帳で あるすれば、その備忘帳が規範になるべきであるが発声(口伝を基本とするもの)の音階強弱、旋律の仕 方(調子)、邦楽独自の序破急、拍子等の指示符号がないために、伝授者の個性や地方性が如実になり謡 に統一性がなくなる虞れが生じてくるのである。その顕著な現象は次のとおりである。
  ・音階が全体的に低くなり、発音(言葉)も不明確になる。
  ・謡う運びが全体的に遅くなる。
  ・強弱の減り張りがなくなる。
  ・旋律性と音曲性が乏しくなる.
  ・序破急の展開がなく謡いが単調になる。
  ・従って、統一性の維持ができず、故に合吟が不調和(不協和音)になる。
 ウ 右の解消策、即ち「栗生流小謡集」の確固たる伝承を図る方策は、次のとおりであると思料する。
  ・金春流教授に師範を委嘱し、定期的に反復稽古を実施すること
  ・このためには、結社し稽古所を固定することが肝要であること
  ・更に、草書体と変体仮名による現行本の「栗生流小謡集」【写本】を現代に適うよう書体を改定(更新)するとする決意が必要であること
 ※1 蛇足ながら、師範の範吟を録音できれば、習得は比較的容易である。
 ※2 なれば、栗生地域の活性化に止まらず、特性ある地域醸成に寄与できる。

四「栗生流小謡集」の流儀に関する見解

「栗生流小謡集」に関する前述格段の考察と検討を経て『大蔵流』とする記録は能楽のシテ方には非ず 「金春流小鼓方大蔵流」である。しかし、明治維新後は、金春流小鼓方は現存しないので(前記)兵 藤様の言の通り大蔵流謡曲の宗家も存在しない。理由は、大蔵流小謡の始まりは「金春流小鼓方」であるからである。

◎ 付録(関連用語解説)

1 二-1「能楽の流儀」に関連して=東北地方には能楽五流以外の、民俗芸能であるところの「黒川能」と 「登米能」が現存している。黒川能は独立社中で流儀は黒川式なれど国指定無形民俗文化財である。一方、登 米能は現在は喜多流の職分(佐々木宗生師)が指導しており、宮城県指定無形民俗文化財である。
 2 詞章=外の流儀では「謡詞章」とも称す。
 3 謡=読みは「ウタイ」なれど「謡う」の読みは「ウタイ云う」(「謡と云う」の意)、従って 「謡本」の読みは、「謡いいう本」という。
 4 序破急(ジョハキュウ)=もともとは舞楽の述語にして古典芸能(邦楽)の演目構成と一演目中の 場面が展開・進展する様式を表わす重要な意味のある用語である。(正規文章の「起承転結」に相当する用語)
  序破急の能楽上の語義は、世阿弥著の「風姿花伝」「花習」「花鏡」にて詳説されているとおりであり、 世阿弥により定義され今日に至っている。従って、小謡と言えども序破急を心得て謡うを本意としている。

   文 責 能楽観世流 名誉師範 天 野 貴 之
             仙台市青葉区愛子在住

◎参考資料

一 謡曲大観首巻(佐成謙太郎著) 二 世阿弥集(小西甚一編)
三 日本古典文学観賞第二十二巻 謡曲・狂言(小山弘志、北 川忠彦 編)
四 金春流大蔵正左衛門に関する考察と調査資料(金春流本教 授 故本屋千代子師)(曾て、仙台市青葉区愛子束四丁日在 住、生前にご教示)
五 大蔵流小謡集【写本】(大蔵流謡曲師範兵藤智様(栗原市 花山字本沢在住)寄贈

◎追 補 ― 一 ―「1能楽の流儀」中「今春流」の項を次のと おり追補する。
 今春流 五流中最古の流儀(謡詞章、装束、式服及び所作を創流時の古式を今日に 継承している。創流後から徳川時代に至る間に各役がシテ方五流に所属した配属状況は次のとおりである。
  今春(金春)座 ― 金春大夫
   配属 小鼓方 ―(家柄)大蔵流・幸流
  狂言方 ―(家柄)大蔵流
  ワキ方、ツレ方、笛方、大鼓方及び太鼓方の各家柄は別紙参照
  ※能楽の謡は、シテ方、ワキ方、ツレ方が分坦するので、「大蔵流」を名宣るは自ずから「小鼓方」もしくは「狂言方」となる。
    狂言方は独自の装束を着け「語り」と「所作」が中心の演枝であるが、随所に「狂言謡」を 謡う事を役柄としている。謡い方の旋律及び節扱いの面から考察すると、シテ謡、ワキ謡、ツレ謡の いずれにも該当せず、かつ、小謡集に編纂されている曲目のうち狂言方の領域にしない曲目が多数ある。
    一方、小鼓方は金春流全曲を熟知しており、かつ全場に亘りシテ方やワキ方と常時共に演能する 役柄であるので、自ずからシテ謡とワキ謡を習得できる役柄でもあった筈である。その上、大蔵流小謡の 旋律に極めて類似している点からも『金春流小鼓方大蔵流』であろうと推量するに至ったのである。

⑵ 伊達家仙台藩の能楽・謡曲の受容について

1.能楽は、室町時代に乱舞と称されて、大きく発展していた。戦国時代になると奥羽の地にも普及が 進み、伊達家でも伊達輝宗(初代藩主政宗公の父)には、正月行事として1月14日に能楽(乱舞) 始、謡始が行われており、すでに年中行事化していたことが確認されている。
 ※仙台藩年中行事……主従儀礼、宗教儀礼、祖先祭、祝儀礼、民俗儀礼という五つの性格をもった行事から構成されている。
   江戸時代に入ると能楽は、茶の湯と同様に大名同士の交際に欠くことのできないものとなっていった。誰かをもてなす 場合にも、もてなしを受ける場合にも、能楽・茶の湯・酒宴は必須のものであったから、他の大名に誇れる能役者を抱えてお くこと、さらに藩主みずからも技を鍛錬することが非常に大切なことであった。
2.初代藩主政宗公は能楽好きで、金春流の桜井八右衛門安澄を重用し、また一六三四年(寛永十一年)には徳川家光から蟄 居を命じられていた喜多七太夫長能の窮状を救っている。さらに、囃子方として白極善兵衛言次(はくごくぜんべえときつぐ) を登用して、太鼓の名手といわれるまで成長させ、笛を担当して平岩流の祖となった平岩勘七親好や長命長次郎などを召し抱 えるなどして充実させている。また太鼓を打つことを好んだ政宗は、元和年間(一六一五~一六二四年)に観世流の太鼓の家 である今春左吉に対し、二段返しの奏法の伝授を「是非是非所望候」と手紙で懇望している。
3.二代忠宗は喜多流二世十太夫当能を仙台藩の家臣として抱えた。四代綱村は喜多流の流れをくむ小野清太夫を乱舞頭とし て用いた。また桜井家と並んで金春流のシテ方を務めた大蔵家を用いた。五代吉村は現在判明しているだけでも、約四五〇番 の演能でシテを務めた経験があり、歴代の藩主のなかでも政宗公と並んで最も能楽を愛好し、桜井家が伝えていた技と大蔵家 が作り上げた技をあわせて、金春大蔵流という流儀を作り上げた。その後曲目も除々に増え、政宗公の時代には安澄が金春安 照(禅曲)から伝授された能は一〇二番であったが、習得や新作曲作によって吉村の時代には二三〇番にもなっていた。
引用 関 孝太郎

⑶ 謡曲の変遷と伊達家

◇「能と謡曲の変遷」  謡曲(謡)は能の地謡いを基本にしており、能は猿楽を源にし、それが発展していく。
 奈良時代に唐から渡来してきた中国の庶民達が愛好した芸能の散楽がなまって猿楽という言い方に変化したようである。 散楽は曲芸や軽業、奇術、ものまね、歌舞などの芸能を鼓や太鼓などの楽器伴奏で演じていたものである。
 猿楽はさるごうともいわれ、散楽、申楽、散更などとも書かれた。平安時代、宮廷で滑稽な物まねや言葉芸を中心とし て相撲(すまい)、競べ馬の節会(せちえ)や内侍所御神楽の余興として演じられた。また民間では平安末期から鎌倉時 代にかけて寺社に付属する職業的芸能人を生み、見せ物として興行されるようになる。社寺の祭礼で僧侶たちが法会の後 に演じた延年、仏事の時の呪師といった芸能がある。また同時代に歌と舞による白拍子、曲舞(くせまい)がある。
 猿楽は鎌倉時代にはいって演劇化し、舞、歌中心のまじめなものは能に、台詞中心の滑稽なものは狂言となった。
 猿楽のほか、一年の田植えの様子を演じた田楽という芸能も起こり田楽能に発展していった。一時は田楽の方が人気が あった。しかし、観阿弥、世阿弥の出現により能といえば猿楽の能をさすようになった。
 室町時代に入り、足利義満の後援を得て観阿弥は京に上り大和猿楽の向上をはかった。近江猿楽や田楽の長所を取り入 れて幽玄な芸風を打ち出し、曲舞を取り入れて謡の様式を改革した。観阿弥は長男の世阿弥と二代にわたり能を大成させた。
 猿楽には大和猿楽、近江猿楽、長谷猿楽、山田猿楽など様々なものがある。猿楽能は左記の様に変遷していく。

能を構成する役割としては、シテ方と三役のワキ方、狂言方、囃子方とがあるが、謡は、地謡としてシテ座が受けもっている。

能と謡曲の変遷イメージ

⑷ 伊達家の能と謡

 「仙台市史の仙台藩の文学芸能ー資料9」によると能は、乱舞と呼ばれ盛んに行われていることが記載されている。
 謡については「宮城縣史⒁」では能のシテ方の地謡として記載されている。
 能については、足利将軍家が武家に能楽を奨励し、室町時代以降諸大名はこぞって能楽をたしなんだとしている。
 宮城県の伊達氏以前では、葛西、大崎氏、国分氏で猿楽が行われたとの記録がない。ただ、加美郡小野田町の薬莱神社 に大崎家兼が寄進したという慶長以前の能面が数面あるので猿楽が行われていたことがうかがわれる。
 政宗と能楽の関わりは、米沢城にあった頃から始まる。
 父輝宗は、饗応の席などでしばしば「御能・御拍子」を催していた。政宗も太鼓をよくし、伏見で太閤秀吉を饗応した 時、政宗の太鼓で秀吉が老松の切を舞っている。
また藩内の能楽の人材育成にも力を尽くしている。慶長十八年徳川秀忠御成の跡見(茶会の後に別の客が茶の道具を拝見 する茶会)の祝儀として政宗が江戸屋敷で老中等を饗した。その折、金春八郎、観世左近、少進法師と並んでのちの桜井 小次郎が二十一歳でシテを務めている。小次郎は八右衛門安証と称し、桜井家は伊達藩の能の中心的存在となる。寛永十 二年、六九歳の政宗が江戸城の二の丸において将軍家光を饗応した際に催した能は、会心の演出だったとしている。翁付 十番立の能と小姓による風流踊、居並ぶ諸大名の衣装、政宗の太鼓を打つ時の舞台での立ち居振る舞いなど、様々な趣向 がこらされた。この折り、「旧冬関寺ノ能ノ事ニ就テ」失態を犯した喜多七太夫、森田長蔵、幸小左衛門、葛野九郎衛門 は閉門を余儀なくされていたが、それを政宗が取りなし、即刻許されている。その後、仙台藩と喜多流との関係が一層強 いものとなり、二代忠宗の時、喜多流二世十太夫当能を仙台藩の家臣として召し抱えることになった。二代忠宗以降、演 能はますます盛んになった。
 四代綱村は喜多流の流れを汲む小野清太夫を乱舞頭として喜多流の能を率いさせた。また桜井家と並んで金春流のシテ 方を務めていた大蔵流を用いている。五代吉村は、特に能楽に造形が深く、桜井家の技と大蔵家の技を合わせて金春大蔵 流という流儀を作り上げた。演じられる曲目も金春禅曲から伝授された能は一〇二番であったが、吉村の時代には二三〇 番にもなっていたという。綱村、吉村の時代は、記録に残る演能の回数も飛躍的に増加し、仙台藩の能楽最盛期となる。 それは藩主だけではなく、家臣や領民にも広まる。
 注目される人物としては藩の奉行職にあった平賀蔵人義雅がいる。平賀は和歌や文章が巧みで仙台藩独自の演目「摺上」 は彼の作詞と伝えられている。「摺上」は磐梯山南麓に於いて政宗が二十三歳のとき会津黒川城主葦名義広を亡ぼした摺 上原の戦を主題とした修羅物で、古来仙台では有名な秘曲である。
 門閥家の能も盛んで、角田石川氏、亘理伊達家、水沢伊達家、岩出山伊達家、登米伊達家、涌谷伊達家の名がある。
 平泉中尊寺では昔は四月初午初未の両日を祭日とし、古くは神楽能の猿楽が行われていたが、絶えてしまったらしく、仙 台領であった江戸時代には喜多流の能になり、仙台藩の乱舞頭小野氏が代々指導した。また平泉毛越寺での延年能は全国 各地にわずかに残る今日の能の源流の一つで、今日では重要無形文化財に指定されている。
 六代宗村以降は次第に演能の記録が少なくなるが、それでも明治維新近くまで続く。
 明治元年六月三日付の「近習目付留」に「乱舞家業ヲ廃ス」とあり、天正二年以来二百九十四年にわたる仙台藩の能の 歴史に終止符を打つことになる。それによって民間に移行されることになるが、庇護者の伊達氏を失って一時は壊滅した。 乱舞に携わっていた人の中には転業した人々が多くでた。生活苦に堪えて乱舞の面子を捨てず謡曲に一生を貫いた人々も いて、それらを支えたのは農村であった。
 農村では、婚礼や棟上、新宅振舞など祝儀には必ず小謡の何番かを要したからである。
 中央では岩倉具視がオペラの舞台を見て能楽復興を決心し、明治天皇の為に天覧能を催した。明治天皇は熱心な能ファン で宮中その他に舞台が建てられ、明治十四年には大名華族が主体とした六十二名の会員による能楽社の設立を見た。また 二十九年山階宮を総裁、土方久元、九條道孝等で能楽会が誕生した。四十一年には「能の保護に関する建議」が貴衆両院 で採択された。
 仙台では城中三カ所の舞台が悉く破却されて、面も装束も伊達家から紛失し、囃子方も世を去るなどして催能は不可能 となった。明治二十二年七月十二日最後の藩主慶邦の十五年祭に旧乱舞方が能を奉献しようとしたが、笛方がなく、中尊 寺に出仙を請うことになる。装束も手違いで袴能でやる外なくなり、これも斡旋を嘆願するなど主従が逆転するまでにな っている。
 大正時代に入り漸く能復興の気運がみえ始める。謡曲界の分野では、藩政時代からの喜多流が盛んで、政宗以来の金春 流は仙台市中ではなく、地方農村の広い領域に亙り大蔵流の名で小謡として残った。また仙台周辺の村々には金春流の脇 謡も今に伝えられている。その他では金剛、観世も当時は謡う者が少なく、宝生流は仙台市内の官庁や大学・高専校の職 員間で盛んであった。当時、喜多流の盛況は今をしのぎ、沢口会、心声会、親謡会、大謡会、喜章会等の組織があり、宝 生流では金竜会ができる。
 戦後は昭和二十二年八月三日仙台喜多会主催で宮城学院講堂で講演と能が演じられた。昭和二十五年九月、観世、宝生、 喜多の各会が一丸となって仙台能楽協会が発足した。

◇仙台藩の流派

流派としては幸流、平岩流、金春流、大蔵流、観世流、喜多流、葛野流、高安流、喜多七太夫流、春藤流などがあり、 それぞれ時代の記述としては左記の通りである。
◎政宗=〈喜多流〉仕手役、〈幸流〉大鼓、〈平岩流〉笛
◎忠宗=〈喜多流〉仕手役、〈幸流〉大鼓、〈平岩流〉笛
◎綱宗=〈金春大蔵流〉仕手役、〈幸流〉大鼓、〈観世流〉大鼓、〈喜多流〉仕手役、〈平岩流〉笛、〈喜多流〉物着役
◎綱村=〈幸流〉大鼓、〈喜多流〉物着役
◎吉村=〈金春大蔵流〉仕手役、〈幸流〉大鼓、〈平岩流〉、〈観世流〉笛・唱歌、〈平岩流〉笛、〈葛野流〉大鼓、 〈高安流〉脇連・地謡、〈喜多流〉御能、〈大蔵流〉作物役
◎宗村=〈幸流〉大鼓
◎重村=〈大蔵流〉仕手連役、〈幸流〉小鼓・大鼓、〈喜多七太夫流〉能、〈平岩流〉笛、〈観世流〉小鼓、〈大蔵流〉大鼓
◎斉村=〈大蔵流〉仕手連役、〈幸流〉大鼓、〈平岩流〉笛
◎村風=〈喜多七太夫流〉地謡、〈大蔵流〉狂言役
◎御連枝方=〈喜多流〉地謡役、〈春藤流〉地謡、〈大蔵流〉
狂言
◎重村三女詮子=〈大蔵流〉仕手連役等後には城主以外の記述もある。

◇仙台藩の演能曲目

◎政宗=卯松丸、吉松丸、長松丸、加茂、実盛、源氏供養、邯鄲、三輪、船弁慶、弓八幡、白楽天、忠度、熊野、 殺生石、自然居士、鵺、翁、狂言引敷聟、忠則、狂言鈍太郎、松風、黒塚、志賀、湯谷、紅葉狩、芦刈、是界、 呉服、白鬚、烏頭、養老、高砂、千手、鵜飼、三井寺、項羽、八島、野宮、葵上、天鼓、江口、江島、田島、 芭蕉、百万、天鼓、野守、現在鵺、猩々乱、羽衣、土蜘蛛、定家、海士、祝言、竹生島、道成寺、柏崎、玉鬘、 東岸居士、大会、善知鳥、鵜飼、羅生門
◎忠宗=嵐山、知章、采女、舟弁慶、海士、加茂、頼政、源氏供養、道成寺、龍田、羽衣、舟橋、項羽、祝言、 呉服、翁、高砂、芭蕉、三輪、国栖、猩々乱、竹生島、八島、千手、梅枝、祝言、実盛、熊野、紅葉狩、鐘馗、 西行桜、自然居士、杜若、熊坂、箙、江口、百万、善知鳥、舎利、金札、源太夫、敦盛、松風、藤戸、春栄、 七騎落、鞍馬天狗、忠則、東北、葵上、定家、天鼓、桜川、山姥、張良、朝長、松風、隅田川、斑女、阿漕、 殺生石、鉢木、三井寺、是界、忠度、楊貴妃、卒塔婆小町、猩々、龍太鼓、芦刈、橋弁慶、玉鬘、養老、野営、 盛久、遊行柳、松虫、弓八幡、田村、野守、龍田、柏崎、海人、井筒、邯鄲、兼平、鵜飼、和布刈、白楽天、 清経、千寿、当麻、吉野静、通盛、融、湯谷、富士太鼓、小袖曾我、安宅、鵺、老松
◎綱宗=高砂、田村、江口、野守、誓願寺、邯鄲、小督、藤栄、猩々、車僧、海士、竹生島、八島、芭蕉、鵜飼、 龍田、盛久、猩々乱、融、養老、通盛、熊野、善知鳥、邯鄲、三井寺、熊坂、和布刈、通盛、野営、藤戸、現在鵺、 翁、兼平、祝言、玉井、忠則、松風、土蜘蛛、三輪、柏崎
◎綱村=三輪、柏崎、海士、高砂、田村、江口、野守、誓願寺、邯鄲、小督、海士、藤永、猩々
◎吉村=翁、高砂、田村、東北、羽衣、祝言岩船、大社、箙、江口、船弁慶、石橋、芦刈、乱、弓八幡、八島、 芭蕉、張良、竜田、融、祝言金札、愛宕空也、鱗形、烏帽子折、右近、浦島、大原行幸、清重、砧、久世戸、 兼哉櫻、戀重荷、碁、三笑、酒呑童子、上宮太子、石橋、須磨源氏、住吉詣、關原與市、空腹、草紙洗小町、 琢鹿、木賊、鶏立田、飛雲、常陸帯、富士山、枕慈童、鞠、三笠山、三笠龍神、御裳濯、行家、龍虎、輪蔵、 龍祇王、杜若、融、三輪、海士、山姥
◎宗村、重村=
 以上狂言を別にして政宗の催したものだけでもこれだけあり、歴代の藩主もそれぞれに様々な曲目を演じさせている。
  また大正以降昭和三十二年まで演能としては左記の記載がある。
〈脇能物〉高砂、竹生島、加茂、岩船、西王母
〈修羅物〉田村、八島、忠度、経政、巴、清経、頼政
〈鬘物〉羽衣、熊野、松風、杜若、定家、草紙洗、胡蝶
〈四番目物〉芦刈、桜川、隅田川、蝉丸、花筺、百万、三井寺、弱法師、蟻通、邯鄲、放下僧、巻絹、枕児童、 通小町、葵上、綾鼓、藤戸、安宅、小督、小袖曾我、春栄、七騎落、桜井、満仲、盛久、橋弁慶、景清、鬼界島、鉢木、望月
〈切能物〉小鍛冶、鵺、鞍馬天狗、熊坂、野守、鵜飼、船弁慶、黒塚、土蜘蛛、紅葉狩、融、山姥、猩々

◇宮城県関係の謡曲(本県を主題とした謡曲)

護法(ごほう)、実方(さねかた)、千引(ちびき)、千手寺(せんじゅじ)、千人伐(せんにんきり)、 融(とおる古名ー塩釜)、宮城野、甲冑堂、松島、小萩、末の松山、玉川

◇仙台で作られた謡曲

摺上(すりあげ)、神皇、立教、視学、泮林(はんりん)

◇栗生地区で謡われている謡曲ー大蔵栗生流

(二十二曲)高砂(七曲)、養老、難波、月宮殿、老松(三曲)、田村、弓八幡(四曲)、加茂、玉乃井、春榮、竹生島

⑸ 「講」とはなにか

栗生で実際に行われている「山の神講」の詳細を見る前に、日本各地で行われてきた「講」の全体像と、その中における、 栗生での「講」の位置づけと種類について俯瞰したい。
 ここでは、以下に、「白い国の詩―民俗編―」(竹内利美「講の話―民間信仰と講」)からの説明を抜粋する。
 「講」は「講経」、つまり「仏の教え(経典)」を説き明かすことで、やがてそのための「集り(講会)」をさすよう にもなって、上代の宮廷や寺院では仁王講・最勝講・法華八講などの講行事が年々おこなわれてもきた。
 平安中期以後「浄土の教え」がおこって念仏修行がさかんになると、菩提講・迎講などの行事が多くなり、一方には 念仏修行の同信者の仲間もふえて、やがて「講」はひろく同じ信仰を持って協同の行事をとりおこなう「仲間」の意味 にふりかわって行った。
 そして室町期にくだると、こうした傾向はひろく民間一般にもゆきわたって、神仏を問わず、同じ信仰にむすばれて 協同の行事をとりおこなう仲間を「講」と呼ぶようになり、さらには信仰を離れた有志の団体まで、「講」の名をとな えることにもなった。「茶講」「将棋講」「汁講」、さては仲間金融の仕組の「頼母子講」「無尽講」、資材や労力の 「助け合い」のための「茅講・屋根講」といった類いである。しかし講の・王体が「同信者の仲間」であることは久し くかわらず、旧くから東北各地にも伝統的な信仰仲間の「講」がいろいろあって、多彩な仲間行事をとりおこない、人 々のくらしに「活力」を与える「よすが」ともなってきた。