栗生流 謡いの源流を訪ねて
栗生流とは
栗生の契約講
嫡男継承のしくみ
栗生地区で、明治から始まった謡がなぜ継承されてきたのか。そしてそれは、「栗生流」という一派を形成するまでの独自性を持つまでになったのか。そこには、謡を継承するためのしくみがあった。
謡はもともと男性が行うものとされ、農閑期の旧暦一月十五日から一月いっぱい、地区の家々の跡取りである長男だけを集めて毎夜稽古を行っていた。その期間内は、地区内の家の作業所などを練習場所と決め、毎日、夕食を済ませた長男たちが集まって謡の稽古をした。
稽古の指導には、四十代から五十代の師範代が四、五人であたり、この人たちは師範から「準教本」という手書きの謡の本をもらっていた。現在の栗生の人の記憶に残る師範はという方は、物知りで料理の腕もあり、謡の師範もこなした多彩な人物だったそうだ。馬の売買で各地を回り見聞を広めた人物だったらしく、のちには、村議会議長も務めた。
一月十五日から一月いっぱいと言えば、一年でも最も寒い季節である。練習場所の作業所には暖房などなく、わらやむしろを敷いただけの真冬の室内は寒かったに違いないが、嫡男としての責任を担うことへの覚悟と誇りが、この極寒の稽古を神聖なものとしてきたに違いない。また、同性だけの集まりに特有の盛り上がりもあったようで、稽古が終わって帰る道すがら、たった今練習してきた謡を大声で合唱する声が、たびたび夜道に響いていたそうだ。
昭和四十年頃、実際にこの稽古には毎年十五・六人から二十人ほどが通っていたという。年齢は十四、五歳から声が掛けられはじめ、二十五、六歳くらいまでで卒業だったようだ。そもそも、家の主は「契約講」の構成員であり、その嫡男は「若者講(その象徴的な行事の名から「山の神講」と呼ばれることも)と呼ばれる組織を作っていた。そのため、昔は、父親の代替わりするまでの間に謡を修得し、名実ともに家を継承したようだ。しかし戦後は、戦争で稽古ができないまま年齢を重ねた者や、長男が戦死した家の跡継ぎ、また住み込みで働く大工の見習いなど、謡の練習が必要な人が皆参加し、栗生では多くの男性が謡を身に付けていった。
男たちが謡の稽古に熱心だったのにはもう一つ理由がある。それは、毎年の稽古の最終日には地区の人々へ披露する、「謡納め(うたいおさめ)」と言われる発表会が待っていたからだ。作業所での稽古とは違い、この日ばかりは母屋へ移り、正式な座敷が二部屋ほど開け放たれる。そこへ、着物を着て登場する謡い手は、部屋いっぱいに集った人々の、期待に満ちた眼差しを受ける。この日は、はじめに「熨斗あげ」をやることもあり、多い時には二十人にものぼる演者は、独唱や二、三人のグループに分けられてそれぞれに練習の成果を披露した。当時、謡を聴くことも多かった栗生地区の人々は、小さな子どもや女性でも耳で覚えた者がおり、節を間違えたりするとクスクスと笑い声が聞こえ、謡納めに臨んだ若者はすっかりあがってしまった。それでも、若者たちの晴れ姿を一目見ようと集まった人々からの励ましや応援が、これから地域を支えていく若者たちの心に届いたに違いない。
ここで、栗生の謡を守ってきたこの稽古について、興味深いことがある。それは、この稽古の際、結婚式などで使う金銀の飾り結びや、のしあげの際に使う「水引き細工」を作る作業もやっていたことだ。紅白は用いず、金銀の古いものをほぐし、新しく作り直す作業をした。
栗生は、結婚式を重視してきた地域であるが、特に長男の結婚式には、大きな水引き細工を飾り、盛大に祝った。水引き細工が伝統工芸として伝わる金沢などでは、職人の多くが女性であるのに対し、栗生では、結婚式に使用する「おもだか」などと共に、男性が作るものとされたようだ。特に、嫡男が手掛けることで、水引細工の神聖さが増したのではないかとも考えられる。
さて、「謡納め」を終えた若者たちは、きっとその後は大きな酒宴を催したに違いない。極寒の中毎夜続いた稽古を終えて、また、赤面しながら披露した謡の緊張感も解け、その顔は喜びと誇りに満ちていただろう。
地区の人々の結びつきを強め、組織を円滑化するこれらのしくみは、同時に家々の格式や序列などを明確にし、組織としての動きを速やかにする働きを持っていた。栗生で暮らす人々は、格差が少ない地域性を実感するが、その精神は、この謡継承のしくみに秘密があったかもしれない。謡にお稽古は、記録によると昭和46年を最後に終わっている。現在は、最後の師範が当時の師範代におくった数冊の謡の教本が残っているが、謡のできる数人は、昔耳で聞いた旋律を思い出しながら謡うのみである。