栗生流 謡いの源流を訪ねて
謡の今
栗生最後の講 若者講
栗生の契約講と若者講について
栗生の契約講については、大正十二年の「廣瀬村栗生部落契約組合規約」が残っている。
これが作られた頃の時代は、第一次世界大戦が終わった五年後である。
この規約の第九条には一一項目の事業が記載され、一項の「組合員ノ親和ヲ旨トシ 一致ノ歩調ヲ以テ漸進スルモノトス」から始まり、(以下は抜粋) 『農蚕業ノ発達改善、森林ノ養成殖栽、災害ノ防止警戒、組合員中家屋ノ新築及修繕等ノ場合ニハ 組合内二依頼シ援助ヲ受クルコト 其ノ依頼サレタルモノハ極力之ヲ手傳フコト、冠婚式又ハ佛事ノ法養等ノ場合ハ右ニ同ジ、各自手傳等ノ場合ハ誠実ヲ以テシ 其賄ハ節約実行、最後の方には罰則も書かれており、軍事力の強化が進む中で、組合長を中心とした集落の統制を図る』内容と成っている。
当時の組合員は二十四人であった。
契約講には、大組と小組があり、大組には、集落ごとに窪組・中組・下組・原組の四つの組があり、構成員の数は六人から十人程であった。これらの組は小組と呼ばれ、本家や別家などが主に冠婚葬祭の手伝い、災害時の互助などを行っている。大組に加入している講員は、昔からの集落に住んで居た家柄の家長だけで構成されている。事業の内容は小組とほぼ同じだが、大きな違いは講員の茅葺き屋根の葺き替え工事に関する費用や手伝いや冠婚葬祭(昭和四十年代まで存続)が含まれていることである。
これに対し、これから紹介する「若者講」は、大組の次世代を担う、その家の長男が講員となって「山の神」を崇め行われる。なお、この講としての発足に関する規約などは見つかっていないが、契約序として明治十八年十月二日改正された文書には「当地区内では遠い過去に若者契約を設立した。その後、本年に至るまで長きに渡り、契約議定証を作らず意味もなく口約束にて自分たちで貫き通した。然しながら今や開化の政治に照らし合わせると時厳しく細かく記する必要がある。」とし、今回、規定証を作る理由であると「栗生若者連中職」契約人二十四人の名前が記されている。
これらから分かることは契約講が若者講の後にできた組織の様に想えるが大正時代になって契約組合規約を作る前から口約束だけで存在し、明治維新によって若者に関する決まりを新たに設けたものである。
昭和四十六年頃を最後に、長男だけが集まって毎年一月に行われてきた謡の稽古の習慣がなくなった後も、様々な場面で、栗生地区の人々の暮らしを節目節目で彩ってきた。中でも、次世代の家長となる長男だけが集まってつくる若者講では、毎年三月に、総会となる「山の神講」という行事を行い、その中で謡を謡い伝承してきた。
しかし、平成三十年三月、栗生で最後の謡が謡われた。栗生若者講最後の「山の神講」でのことである。以下は、この最後の講がどのように終わっていったのかを記した記録である。古くから脈々と繋がれてきた歴史を閉じようとするとき、そのような中でも、何を受け継いでいこうと思ったのかについて考えたい。
若者講の行事「山の神講」
若者講の組織は、地域の信仰の源である「黒瀧不動尊」との結びつきが強い。若者講が黒瀧不動尊との結びつきを示すものとして、近くの道祖神堂境内に道標として、明治二十九年申年三月二十八日に建立した「黒瀧不動尊 左ハくろたき道 是より十三丁 栗生若者中」の石碑があり、今なお行事として続けられてきた黒瀧不動尊の総会(毎年旧歴二月二日と旧歴十月十日に開催)と深く関わり、古くから続く講であることが伺われる。
黒瀧不動尊は、弥勒寺から一五分ほど登ったところにあり、不動明王を祀っている建物がある。仙台城から最上へ通ずる「最上古道」の蕃山の裾野に元亨四年(一三二四年)に建てのられた元亨の碑がある。。この地に住む人々の暮らし、時の流れを見つめてきた。建物の前の小さい橋を渡り、細い石段を上がると拝殿がある。拝殿の右手に「太郎坊瀧」と言われる滝と、線刻の不動明王と、二体の小さな石像がある。拝殿の奥はガラス戸になっていて、そこから「太郎坊瀧」を臨むことができる。修験者はここで座禅を組み、滝の音と一体になって修行をしたと思われる。
黒瀧不動尊は、旧宮城地区に伝承する「龍神太鼓」の背景となった「雨乞い」の舞台であり、天命の大干ばつの際、住民が藁で作った大きな蛇体を担ぎ上げて祈りを捧げた所である。
戦前・戦中は地区に大病人が出たり、出征兵士があると、地区住民が布団を背負って参道を登り、「お籠り」をして病気の快癒や、出征兵士の武運長久を祈った。燈明の明かり勢いが強いと願いがかなえられると信じられてきた。「お籠り」は地区の人々の繋がりの強さを示すものだろう。いつの頃からか、ここには四〇~五〇歳くらいの剃髪の女性が一人で住んでおり、名前を「貞雪尼」といった。昭和三十年頃までは、地域のお祓いや占いなどを生業として、栗生に住む人々の相談を受けることも多かった。
黒瀧不動尊の灯篭を見ると、遠方からの参拝者も少なくなかったということが分かる。この近辺に、道標が多いのも、他の土地からここを目指した人が多かったことを裏付けている。黒瀧不動尊は、修験の場でもあったらしく、祭事の時は、お堂の側の広場で、「火渡り」や「湯立て」が行われた。
黒瀧不動尊には、常駐しているいわゆる上人(しょうにん‐仏教の高僧を表す)が住んでおり、昭和十年代に居たとされる「吉川上人」については、今も記憶している人が多い。吉川上人は三人家族で黒瀧不動尊に住み、息子は地元の小学校にも通っていたという。
「火渡り」は、堂の左手の場所に、細木やしばなどを燃やして燠(おき)を作り、畳四枚ほどの広さに広げる。その上を、最初に上人が裸足で「ノウマク サンマンダ バザラダン…」と唱えながら歩く。その後を信者や見物人が歩くが、その儀式の最中は、皆が「ノウマク サンマンダ バザラダン…」を唱え続けた。
「湯立て」は、まず、石で作ったかまどを載せ、いっぱいの湯が沸かされる。白装束に身を包んだ上人は、二尺ほどの熊笹の束を両手に持ち、それを湯に浸してお湯をすくい、頭の上からかぶる。そのお湯には魔除けの効果があるとされており、見物人にそのしぶきがかかるように繰り返された。狭い境内は、遠方からの信者で埋まり、信者の中には、湯を浴びてトランス状態(通常とは異なった意識状態=変性意識状態)になるまで唱え続けたという。
黒瀧不動尊の霊験は他にもある。古くからの言い伝えによると「目の神様」として崇められてきた歴史があり、この瀧の水で目を洗うと目の病気が治ると言われている。
昔から守ってきた「黒瀧不動尊の祭事」は、平成三〇年三月一一日(日)午後五時、栗生四・五丁目集会所で開催された「山の神講(旧若者講)」の総会において、後継者等の問題から平成三〇年三月二一日を以って講を解散し、祭事を取止める事を決めた。
ただし、今年の祭事は、協力員(中組:澤口政志・窪組:庄子隆一・下組:庄子嘉仁・原組:庄子 勝)によって、四月一日(日)執り行うことを決め、その後は毎年七月の第一日曜日の朝六時から氏子等を中心に清掃のみを行うことにした。
なお、修繕費を要する時は、黒瀧不動尊の別当である澤口益雄さんの呼びかけで行うことも決めた。(「平成三十年三月一一日記述)
この後、平成三〇年四月一日(日)には、最後となる「黒瀧不動尊の祭事」が行われた。栗生の謡を語る上で欠かすことのできない黒瀧不動尊への想いを、若者講の最後の責任者となった澤口政志さんは次のように語っている。
昭和46年の練習日出席簿
これからも受け継がれる「山の神講」の精神
昔の若者講は、それぞれの家を当番の宿(会場)として「山の神」が回っていました。しかし、時代の流れの中で、その場所が集会所に代わっていったのです。その背景には、協働作業が基本だった農業の機械化や、農業、林業を生業としていた栗生地区の人々も多様な職業に就くようになったことや、女性の社会進出や核家族化などがあり、講などいわゆる「結い」の役割は薄くなっていったのだと思います。昭和六二年で造成工事が終わり、栗生地区には大規模な団地が出来たことも、地域の結びつきを大きく変えました。
大組と称する栗生の「契約講」が発足した当時は、四つの小組をあわせても戸数としては少なかったはずです。この地域の昭和四〇年代までの家族構成は、大所帯で兄弟夫婦も一緒に暮らしていました。昭和四〇年代後半になると、兄弟夫婦等が別家として独立し、周囲に家を建て暮らし始めるようになり、栗生では戸数も増えて行きました。
地域の祭りごとについては、代々続く家柄の家の長男である家長から成る組織「契約講」に全戸が加入し、冠婚葬祭や災害時の互助等を行っていましたが、講に関しては、発足当時の構成員で継承され、新たに増えた別家等の加入は認めていなかったので、集落の行事を執り行うために、後から講に似た組織として前述の小組とは異なる「小組」が形成され、今日に至っています。最初の小組との違いは、共有林や頼母子講が無かった事です。
昔はそれぞれが大きい家に住み、兄弟や従兄弟、親戚や使用人が一緒に暮らしていました。結婚式、お葬式などを業者に委託して行うようになって、家同士の結びつきは弱くなったと思います。何をするにも手間が掛かり時間も労力も必要だった昔の暮らしですが、非効率な中に良さがあったと思い返されます。
春先、参道沿いに咲き誇るカタクリの花を観ながら不動尊までお参りを兼ね散策に来る方のためにも、今、続けられる範囲で、参道とお堂の整備は行っていきたいと思っています。特に、ひっそりと建つ拝殿の周りは、左に聳える大杉と右の山から流れ出る瀧水、その空間に立つことで心が癒され、この地に関わってきた人々の暮らしや祈りを思い浮かべることができます。
残念ですが、若者講が行う「山の神講」も平成三〇年三月で終わり、その中で謡われてきた謡をもう謡うことはありません。一六人がいる中で若者講をなくしましたが、別当と世話役(窪組と中組・下組と原組)四人が中心となって黒瀧不動尊の清掃は続けて行きたいと思っています。いつの日か、若い世代の方たちが、栗生の謡を聴いてみたい、謡ってみたいと思ってくれることを祈りながら。
謡に期待されること
平成四年四月、栗生地区に仙台一一九番目の小学校として「栗生小学校」が開校しました。この数年前から、栗生地区の宅地化に向け、栗生土地区画整理組合が発足しました、蕃山から斎勝川へ緩やかにくだる桑畑や雑木林、蛍が飛び交っていた広い田畑には次々と新しい住宅が立ち並びました。ひっそりとしていた薬師堂のお堂の周りには児童公園が整備され、古い街道沿いに建っていた道祖神は移築されていきました。このような再開発の中、この地域独特の文化や伝承は少しずつ姿を変えたり、消えてしまうこともあり、その様子を寂しく思った方も多かったと思います。
蕃山を里山と呼び、この自然と一緒に過ごしてきた栗生地区の人々は、この土地の素晴らしさをずっと感じてきました。それ以上に、この地区の風俗や文化が受け継がれているのは、史跡や行事について自ら関心を持ち、関わり続けてきた栗生地区本来の人々がいるからにほかなりません。
一方で、新しくこの地区に移り住んだ住民の中にも、この地域の素晴らしさに気付き、残したいという想いに駆られた方がたくさんいました。私たちの「栗生の民俗をたずねる会」は平成十八年に発足後、栗生地区の古くからの住民と新しく移り住んだ住民が一緒になって、栗生地区らしさを残したいと活動してきました。最初は、栗生地区に伝わる史跡を調べ、訪ね歩くことから始まりました。そのうちに、伝統行事や風習の中にこの地区独特のものが数多くあることに気が付きました。特に、伊達政宗が、伊達家三代に仕えた重臣の茂庭綱元の隠居であった「西館」を頻繁に訪ねていたであろうということは、この地域の特徴になっていると思われます。綱元は、輝宗、政宗、忠宗を支え、伊達政宗の長女五郎八姫に西館を譲るまでの約十五年間を栗生で過ごしました。政宗の和歌や茶の湯、能についての教養の高さは、存命当時から注目されていたと史実が語っています。能舞台もあったと言い伝えられる西館で、政宗が能を舞い、謡を謡ったのかもしれません。
私たちは、栗生地区に今も「栗生流」という謡(うたい)が伝承していることを知り、さらに、西館跡の歴史を調べる中で、伊達家と縁を持つ謡を軸に、人々の暮らしの移り変わりを調べることからこの地区の独自の風俗や品格、文化的な水準の高さを浮き彫りにしようと考えました。
栗生地区には謡の教本や記録が残っており、わずかに謡を披露できる人もいます。今、この伝承を形にしておくことで、この地区の人々が地域の背景を知り、地区に愛着を持ち、育った場所を愛して下さることを祈りたいと思います。