栗生流 謡いの源流を訪ねて
栗生流とは
栗生流の発祥と伊達家
栗生流の発祥を考える上で、この地区のおかれた「特殊性」を語らずには始まらない。
伊達政宗の長女は、正室の愛姫との間に生まれた最初の子であったが、女子だったため、当時の風習から、後継ぎの男子が授かるようにと願いを込めて「五郎八姫」と名付けられた。読みは「いろは」と可愛らしいが、五郎八姫には、当時の封建制度の中を生き抜く過酷な試練が待っていた。
五郎八姫は、徳川家康の六男 徳川忠輝の正室となるが、忠輝の改易(1※)の後、離縁され、父のもと仙台に戻った。忠輝と五郎八姫は、仲睦まじい夫婦であったそうだが、有力武将同士の戦略的な結婚と離縁とを経験することになったのではないだろうか。
仙台に戻った五郎八姫は、仙台藩二代藩主、伊達忠宗が住む仙台城から、蕃山をはさんで反対側のすそ野に広がる栗生の地に、にひっそりと居を構えることになる。
当時から、栗生には「西館」と呼ばれる館があった。ここは、慶長年間(1596~1615)以降に,伊達藩家臣 山岸修理之助が,その後寛永八年(1631)以前から寛永十三年まで,伊達藩奉行 茂庭綱元が居住したと伝えられる。寛永十三年に伊達政宗が死去すると,茂庭綱元はその屋敷を政宗の長女五郎八姫に差し上げ(2※),以降五郎八姫はここに住むこととなった。弟の忠宗も姉を慕い、たびたび西館を訪れていたという話が今も伝わっている(生前政宗は「西館」に住む綱元のところを頻繁に訪ねていたようで、「西館」にも、政宗が好んだ能の舞台があったのではないかという説もあるが、解明されてはいない。)一方で、五郎八姫は、隠れキリシタンではなかったかと言われており、栗生に現存する薬師堂は、飢きんの際、村人の安寧を願って五郎八姫が建立したものだが、安置されている「ロウソク喰い」と呼ばれる仏像は、外国人宣教師の面影を強く持っている。
一方で、五郎八姫は、隠れキリシタンではなかったかと言われており、栗生に現存する薬師堂は、飢きんの際、村人の安寧を願って五郎八姫が建立したものだが、安置されている「ロウソク喰い」と呼ばれる仏像は、外国人宣教師の面影を強く持っている。
このように、伊達家と栗生は、長く深い関係を持っており、能や謡を愛した政宗やその子忠宗が栗生の地に謡を持ち込んだことは想像に難くない。さらに、栗生の謡には踊りはない。愛子、芋沢、秋保など、栗生の周囲の地区には、あいや節や田植え踊りなど、賑やかに人々を鼓舞するような唄があったが、栗生の謡は、むしろひっそりと祈るような想いで謡ったと言われている。
栗生に今も、奇祭「鬼子母神祭(3※)」が残っているが、この地は、他地域との交流に慎重だったと言われている。伊達家→五郎八姫→西館→隠れキリシタン→他地域と交流が少ない→「謡」栗生流の誕生…。栗生流の発祥の陰には、このような、筋書きが見えてくるのではないだろうか。栗生流の謡の源流をたずねて、この筋書きを辿ってみたい。
- (1※江戸時代の改易は、大名や旗本の所領、家禄、屋敷の没収および士分の剥奪を意味した)
- (2※仙台市教育委員会 文化財課「西館跡」より一部改変、抜粋)
- (3※NHK総合 ものほん~ウワサの東北見聞録 2020年2月21日(金)午前2:10~3:22放送)
謡「栗生流」の沿革
年代 | 教本 | 指導者 | 会場 | 参加者 | 備考 |
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明治の初め | 菅井甚右ェ門氏(愛子)作製の本 | 菅井甚右ェ門氏 | 澤口古宅 | 大正4年正月4日より甚右ェ門先生の書本を庄子作兵衛宅広間にて写し書きする。 栗生流之元本「小謡集」壹に記録。 | |
明治33年 | 「小謡本」 | 佐藤伊勢松氏(栗生)所蔵。 大正9年の「栗生流之元本」・昭和31年の「栗生流小謡集」とは異なる。 | |||
大正4年 | 栗生流之元本 「小謡集」壹 | 庄子源之助氏書 「大倉流改メテ栗生流トス」他 記録。 | |||
大正6年 | 栗生地区には明治初めより、大蔵流と喜多流の二派あり。 二派一緒の謡合わせの際、両派の中間なる謡となり、流名に困難。庄子三四郎老決起、庄子忠四郎先生を開祖、庄子源 之助氏相協力して「栗生流」と命名。 | ||||
大正9年 正月 | 栗生流之元本 「小謡集」壹 | 「栗生流」の元本と定む。 | |||
昭和7年 旧2月1日 | 栗生流之元本「小謡集」壹に「栗生流」の口上書を追加記録。 | ||||
昭和31年 | 「栗生流小謡集」 準元本壱~四号作製 | 佐藤宅 庄子宅 | 新吉さん 文男さん | 作製者 庄子源之助氏「栗生流」命名理由と結婚式挙行関係の記録。 | |
昭和 年頃 ~ 年頃 | 庄子源之助氏 | 源之助宅 | 栗生地区の長男 | 旧正月の農閑期に指導を受ける。 |
栗生に残る謡の教本
教本名 | 作製年月 | 内容 | 所有者 |
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小謡本 | 明治参拾参年 | 髙砂(四海波)、養老(長生の)、難波(実や津の)、髙砂(髙砂や)、同(まさきの)、同(始皇の)、同(所は高砂の)、同(さすく?)、老松 (かよふ) 同 (鶴亀)、弓八幡 (四つの海)、同 (桑の弓)、同(松高き)、玉の井 (長き命)、老松 (うれしき)、田村 (白妙の)、月宮殿 (庭の砂金)、加茂 (汲や心) | 佐藤伊勢松氏 |
栗生流の元本 小謡集 壹 庄子源之助書 | 大正四年 正月拾五日 | 大倉流改メテ栗生流トス 明治ノ初年愛子町ノ甚右衛門先生栗生沢口ノ古宅ニ於テ教エタリトカヤ 其時作製謡本ヲ 大正四年正月四日ヨリ庄子作兵エノ廣間ニ於テ甚右衛門先生ノ書本ヲ写シ書シタルモノナリ 大蔵流 小謡集 壹 栗生流之元本ト定ム 大正九年旧正月 髙砂(千代も) 髙砂(四海浪) 養老(長生の) 難波(實屋津の) 髙砂(髙砂や) 髙砂(正木の) 髙砂(始皇の) 髙砂(所は) お弓八幡(松髙き) 弓八幡(桑の弓) 月宮殿(庭の砂金) 老松(加よふ) 老松(嬉しき) 玉の井(長き命) 田村(白妙の) 弓八幡(四つの海) 老松(鶴亀) 髙砂( ) 春榮(猶歓の) 弓八幡(今も道) 加茂(汲や心) 竹生嶋(緑樹陰) 栗生流トハ明治始年ヨリ栗生区ニ大藏流ト喜多流ノ二派アリ 祝儀ノ座ナドニテ二派一緒 ニ謡ヒ合イタルヨリ 何時ノ間ニカ相方ノ流ニ合ハヌ謡トナル 大正六年庄子忠四郎先生 ガ開祖トナリ庄子源之助相協力シ庄子三四郎老ガ顧問トシテ苦心指導ヲナス 改メテ栗生 流トナスタリ依テ茲ニ後日ノ為記録トシテ書キ置クモノナリ 結婚式 役割 結納目録の書き方 栗生流ノ口上書 上記との違い 何時ノ間ニカ両派ノ中間ナル謡トナリ流名ニ困難トナリタリ 依テ大正六年旧正月顧問ト シテ庄子三四郎老ガ決起ナサレ庄子忠四郎先生開祖ナリ庄子源之助相協力シテ苦心教導シ テ改メテ栗生流ト命名ス | 庄子 智氏 昭和七年旧 正月表紙ヲ改メタリ |
第参号準元本 栗生流小謡集 庄子源之助書 | 昭和三十一年 | 別 紙 結婚式饗應之役割人名 結納 目録 栗生流命名之理由 [10ページ参照] | 澤口 益雄 |
謡指導者生存年代
- ・菅井甚右ヱ門氏 明治十一年旧二月没 享年六十六歳(愛子)文化十年(一八一三)~明治十一年(一八七八)
- ・庄子三四郎氏 昭和三年八月三十日没 享年六十四歳(栗生)慶応元年(一八六五)~昭和三年(一九二八)
- ・庄子忠四郎氏 昭和三十二年四月十六日没 享年七十八歳(栗生)明治十三年(一八八〇)~昭和三十二年(一九五七)
- ・庄子源之助氏 昭和四十一年一月二十五日没 享年八十歳(栗生)明治二十年(一八八七)~昭和四十一年(一九六六)
【年代】文化十四年、文政十二年、天保十四年、弘化四年、嘉永六年、安政六年、万延一年、文久三年、元治一年、慶応三年、明治四十五年、大正十四年、昭和六十三年