栗生流 謡いの源流を訪ねて
栗生流とは
栗生の契約講
栗生の契約講と若者講
栗生の若者講は、社会的講の地域相互扶助として行なわれてきている。
社会的講について桜井徳太郎は「地域の共同生活が反映し、相互扶助による契約講、労力を提供しあう「結い(ゆい)」、年齢別の子ども講、若者講、老年講、葬式組の無情講、性別による嬶(かかあ)講、娘講、尼講など、また金品の融通をはかる経済的講は、頼母子(たのもし)講、屋根替ため(無尽講)(むじん)、模合(もやい)講などとよばれ、融通する目的の品目により、米頼母子、船頼母子、馬無尽などとよばれて、それが生活の大きな支えとなっていた」※1述べている。
栗生では、契約講(通称大組)、隣組講、薬師講、若者講(山の神講)が平成まで続けられてきた。
栗生の講組織 ※1
栗生の講については、大正十二年の「廣瀬村栗生部契約規約」(資料1参照)が残されている。当時の組合員は二十四人であった。その後、この契約組が何時の時点で現在の大組と称する「契約講」に変わったかは定かでない。
この栗生には、集落ごとに窪組・中組・下組・原組の四つの組が在り、構成員の数は六人から十人程で成し、これらの組を小組と称し、本家や別家などが加入(集落全員)する組として、主に冠婚葬祭、防災等の活動を行っている。
これとは別に先に触れた大組と称する「契約講」がある。この組に加入している講員は、昔からこの集落に住んで居た家柄の家長だけで構成されている。事業の内容は、小組とほぼ同じだが、大きな違いは、組合員の茅葺き屋根の葺き替え工事に関する資金調達や手伝い(昭和四十年代まで存続)が含まれていることである。
その中でこれから紹介する「若者講」は、大組の次世代を担うその家の長男が講員となって山の神を崇め行なわれる。
なお、この講の発足に関する規約などは見つかっていないが近くの道祖神社境内に道標として明治廿九申年三月廿八日に建立した「黒瀧不動尊 左ハくろたき道 是より十三丁 栗生若者中」の石碑があり、今なお行事として続けられている黒瀧不動尊の祭事と関わりの深い古くから続く講であることが伺われる。
註 結婚式は地域住民の協力と援助による大きな行事で、式での「謡上げ」で謡われる「四海波」「高砂」などは、嫡男に伝え継がなくてはならないものだあった。