栗生流 謡いの源流を訪ねて

仙台市青葉区栗生・落合地区全景

はじめに

栗生地区に人が住み始めた歴史を辿ってみると、縄文時代にまで遡る。

落合地区にある宮城広瀬高等学校敷地(旧宮城県農学寮敷地)にあった「農学寮遺跡」からは、縄文時代中期末葉から後期前葉の竪穴住居址が見つかり、石器や土器が出土している。栗生地区からは縄文時代の遺跡は見つかっていないが、落合地区と同じように縄文人が住んでいたと思われる。

奈良時代には多賀城に国府が置かれ、東北地方の開発が進められたが、栗生を含む旧宮城地区の開発は遅れていた。栗生五丁目で見つかった「栗生遺跡」や「窪遺跡」から、この時代の竪穴住居址が見つかり、土師器や須恵器が出土した。

平安時代には旧宮城地区は「丸子(まりこ)」という地名だったと言われるが、歴史の上にはあまり現れてこない。

鎌倉時代になり、この地域は国分氏の領地になり、仙台(千代)方面と最上方面を結ぶ「最上古街道」が栗生を通っていた。江戸時代に「作並街道」が整備されるまで、栗生は交通の要衝であったことが伺えるが、住む人は多くはなかったようだ。

さらに、仙台城(青葉城)とこの地域の位置関係をみると、城の御裏林(おうらばやし)に続く西方にある。仙台城から最上(山形)へ向かう最上古街道は、城の裏山を西に越えて郷六の賽の窪(さいのくぼ)に出た。郷六から折立を通り、落合で分かれる一方の道は斎勝川の北側に沿って西に進んだ。もう一方の「中道」は栗生を通ったので、当時の栗生地区は、現在の愛子地区よりも人通りが多く行き交うところではなかったかと思われ、次第に人々が住み着くようになって集落ができたと考えられる。

信仰については、人々の往来が主だったころには、旅の安全を祈願し「道祖神」「馬頭観音」などが最初に設けられたであろう。その後、定住に伴い、生業を助けるために、蚕の神様「オシラ様」や、稲作に欠かせない「雷神」「水神」、村の入り口で災いが入り込まないよう番をする「道祖神」や「斎の神」が祀られたのではないだろうか。そしてそれは、この集落が持つ特別な特徴である強い信仰となって形づくられ、互助の精神が深く生活と結びついた講を生み出したと考えられる。

さらに、この講の様式と継承のために「謡」が果たした役割も大きい。謡があることで、様式が分かりやすい形態を持ち、謡を継承する営みが伝承を支えてきた。栗生の謡がのちに「栗生流」となっていく過程も、この地域の人々が信仰の形を大切に守ってきたことの現れと見ることができるであろう。

今回の本の発刊にあたっては、日本人の風俗に根付いた集合体「講」の役割を掘り下げながら、それを栗生地区ならではの方法で維持、継承する装置の一つとしての謡に注目した。

栗生地区について

栗生落合地区は、青葉区西部(旧宮城町地域、青葉山丘陵の西側)に位置しており、JR仙山線と併走して愛子盆地を東西に貫く国道48号・愛子バイパス沿い一体が栗生落合地区となっています。